大正から昭和にかけての道玄坂については藤田佳世氏による「渋谷道玄坂」(弥生書房)、「大正・渋谷道玄坂」(青蛙房刊)、「巷談渋谷道玄坂」(青蛙房刊)に詳しく描かれています。
純粋な少女の目を通して見た当時の人情がこまやかに描かれています。
大正9年に渋谷駅が現在の位置に移った日のことを「その日は道玄坂を上げての大騒ぎで、表通りの旦那方は暑い盛りだというのに羽織袴の礼装で祝賀式に参列した。」(藤田佳代著 「渋谷道玄坂」より)とあります。大正12年の関東大震災は道玄坂に大きな変化をもたらしました。被害の大きかった下町の一流店が百軒店(江戸時代富士講の講元で有名であった吉田家のあったところ)に続々と出店し、「大正13年頃の百軒店の賑わいは今の仲見世(浅草の)よりもっと激しかった。」(同書より)
2,3年して下町が復興すると下町商人は元の場所に引き上げてしまい、百軒店もさびれてしまいました。「しかし、下町商人に活を入れられた道玄坂は震災後の区画整理で道幅を広げ、急な勾配もゆるくして商家の灯も一入明るくなった。」(同書)のでした。また、神泉の弘法湯を祖とする円山花街の発展も道玄坂の発展と機を一にしていたのでした。写真は大正9年明治神宮鎮座祭の道玄坂の風景です。


  昭和8年以降に、東急東横線、京王井の頭線が開通すると、渋谷駅はターミナルとして益々発展し道玄坂も都内有数の盛り場となりました。昭和20年の空襲で焼け野原と帰しましたが、戦災の復興を経て、日本経済の高度成長に伴い副都心として日本有数の繁華街に成長しました。

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