江戸時代から道玄坂という地名は江戸から大山へむかう街道の坂であることは知られていましたが、なぜ道玄坂と言われるようになったのでしょうか。

○この辺りに道玄庵という寺があったので道玄坂と言われようになった。
この説の根拠は徳川家康が江戸に入府し、家臣の屋敷の地割をした時の文書とされる「天正十八年の日記」の中に「七月十四日どうげん坂にて、甚之丞、此者よくわかる、十一日青山原宿場所立候様、甚之丞申出る。9月しぶや所々地わり、どうげん庵ゆいしょ書さし上る。」とあることから云われているものです。

○大和田太郎道玄という和田義盛一族の残党の子孫がこの辺りで山賊となった。
江戸時代に書かれた「江戸名所図会」には「里諺に云う、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年五月和田一族滅亡す。其残党此所の窟中に隠れ住みて山賊を業となす。故に道玄坂というなり。」とあることから言われています。

諸説があり、明らかではありません。また、道玄が物見をしたといわれる松を「物見の松」という言い伝えがあり、其の場所についても諸説があります。字体も道源坂、道元坂との説もあります。今となっては知るすべもありませんが、戦国時代といわれる乱れた時代には、追い剥ぎが出るくらい草深いところであったことが窺えます。

 
江戸時代の道玄坂は大山道の坂道で、付近は江戸の郊外地であり、大名の下屋敷が散在し、生産地としての性格が色濃く、のどかな田園風景が続いていたと想像できます。

右の写真(白根記念郷土文化館所蔵)は渋谷警察署にある掛け軸を撮影したもので、宮益坂(富士見坂)から道玄坂方向を描いたもので、いつのものか不明です。
絵の上の方に富士山が見え、手前には渋谷川にかかる富士見橋が見えます。

  明治8年渋谷第一小学校が現在の東急文化会館の場所に開校したり、明治18年に渋谷駅が今の駅より並木橋よりに開業するなど少しづつ街として発展する条件が 整いつつあったものの、世田谷在の農家が宮益坂にあった青物市場に荷を出した 帰りに買い物をする町でした。日清、日露戦争後の明治38年、世田谷に陸軍の兵営ができ、明治42年代々木に練兵場ができるなど、軍人の往来も増え、さらに玉電や市電の開通により都心と郊外を結ぶ交通の要所となり、道玄坂に電燈がともる(明治42年)明治の末には、商業地として栄え始めました。写真(東京百年史写真帖より)、写真は明治42年の道玄坂で賑やかな人通りが窺えます。

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